禅コンテンツにハマっている私ですが
それとオーラソーマはまったく矛盾しません。
東洋で開花した禅と、西洋で出来上がったオーラソーマ。
一見すると真逆のような感じがしませんか?
禅の持つ、水墨画や僧侶が纏う墨染の衣のような
モノクロームのイメージと
オーラソーマのイクイリブリアムボトルを通した
色と光で意識を見ていく感じは、正反対のもののように思えます。
ですが、どちらもその軸にあるのは「人」なんです。
オーラソーマはいいとこ取りして寄せ集めてるだけ?
オーラソーマでは、レベル2というコースでいろいろな見地を学びます。
その中には仏教やヨガ、アーユルヴェーダのような
東洋起源の見地が含まれています。
もちろん、西洋のユダヤ教やキリスト教などの思想もベースにあり、
占星術や数秘術、アロマテラピーやハーブ、クリスタルを使うような
西洋で発達した学問の見地をも含んでいます。
こんなふうに書くと、
「オーラソーマって、いろんなものから寄せ集めてるだけなんじゃないの?」
と思う人もいるでしょう。
事実、そういう人の意見を聞いたこともあります。
私は、オーラソーマはいいとこ取りだというのには賛成で、
いろいろな見地が矛盾せずにオーラソーマの中に存在している、
のだと思っています。
オーラソーマを学び、自分で使って来て、セッションをしていて思うのは
人を見つめるもので、整えるもので、輝かせるものだということ。
その人がどのように生きたくて生まれて来たのか、
今の状態は、その生き方にどれだけ沿っているのか、
本来望んでいる生き方をするために、どこを整えればいいのか、
整えることで、その人本来の輝きが増してくる
そういうふうに使うものだと日々感じています。
これらは、その人がオーラソーマに直接触れることで徐々にわかって来ます。
人としてどう生きるかを探る
東洋の宗教的見地も、西洋の宗教的見地も、
どちらも人として成長するためのものです。
人としてどう生きるかを連綿として伝え続けているのが
それぞれの宗教ではないでしょうか。
そのどう生きるかを個人レベルで探求していくやり方が
オーラソーマに触れながら日々を重ねていくことで体感できると思っています。
それは、
人の成長(肉体的、精神的、霊的な成長)を目的とするときに
どの見地にも共通しているものを、オーラソーマが持っているからだと思うのです。
オーラソーマは、それぞれの見地に分かれているものを、
網羅するように表現しているのだと感じています。
そこに懐の深さを感じますし、学べば学ぶほどいろいろなこととつながって
いくのが面白くて仕方ありません。
男女の差、肌の色の違い、宗教の違い、考え方の違い、そのほか
いろいろな差はあっても、「人」として同じ、一緒です。
その大きなくくりで、
あるいは「命あるもの」というもっと大きなくくりで
私たち一人一人の生き方を見つめよう、というのが
人としての生き方だと思います。
そして、
もっと良くなろう、成長しようという思いを込めて生きていくために
生まれて来たのだろうと思っています。
アドラー心理学まで絡めちゃうぞ
壮大な話になってきちゃいましたが…
大きな目標を達成するためには
・中目標
・小目標
・今日やるべきこと、
のように細分化すると達成しやすいものですが、
結論として、オーラソーマは、
それらの全てに関わる懐の深さを持っているんだよっ!という、
私なりのオーラソーマ・リスペクトでした。
アドラー心理学でも同じようなことを言っています。
目標ではなくて、所属グループの概念でですが。
それは、
身の回りの所属グループで行き詰まったら、
もう一つ大きなくくりで自分の存在意義を見つめなさい、というもの。
アドラーの考えでは、それが宇宙レベルまで広がっていったので、
当時はあまり理解されなかったようです。
このアドラーが見ていた広がりと同じものを、私はオーラソーマにも感じます。
みんな違って、みんないい。
それを肯定する懐の深さがオーラソーマにはあります。
そんなオーラソーマで自分を知る探求を始めて、続けてください。
私は、イベントやセッションの時に必ずこう言います。
「楽しんでくださいね!」
それは、セッションを楽しんでください、の意味もありますが
自分(であること、を知ること、らしく生きること)を楽しんでください、
そういう意味を込めて言っています。
ぜひAihal-Sophiaでオーラソーマを楽しんでください!