昨日のエントリの続きになります。
昨日の引用部分の他にも
オーラソーマと重なる部分があります。
実はこちらの方がグッと心を動かされた部分です。
引用してみましょう。
一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ、いかなる生き物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
何ぴとも他人を欺いてはならない。
たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。
悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)心を起こすべし。
また全世界に対して無量の悲しみの心を起こすべし。
上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
スッタニパータ、慈しみの経(メッター・スッタ)
「ブッダのことば」第145〜151偈より
インドの仏典の文章は長いんです。
私的には馴染みやすいですが(笑)
この引用した「慈しみの経」の前半部分は祈り、祈念です。
そしてここが、オーラソーマのコースなどで行う
ブルーグローブ瞑想の後半で
マイク学長が語る部分とほぼ同じなのです。
マイク学長の言葉には、銀河や細胞という言葉も入ります。
マイク学長が仏典から引用したのかどうかはわかりません。
とにかく、ほぼ同じ表現なのは間違いなくて
勝手に感激してました!
ここに仏教との共通項を見つけた氣がしました。
仏典の引用後半部分は、人としてのあり方を表現しています。
昨日のエントリで
仏教の目指したものが「真の自己」の探求、
人間としての正しい生き方を明らかにすることで、
これがオーラソーマと一致すると書きました。
生きとし生けるものに慈悲を行うということは
自分自身にも慈悲を行うのと同じ。
引用の中の「他人」を「自分」に置き換えてみても
その文章は成り立ちます。
オーラソーマはそこを見つめるように促すツールだと思うのです。
どうしても西洋的な面が強調されるオーラソーマですが
人にとって普遍的なことなのであれば
東洋の智慧に照らし合わせても矛盾が出ないはず。
それが初期仏教の思想と重なると感じるのは
いたって普通のことなのだと思います。