こんばんは
昨日はibマッピングをさせていただきました。
改善点は毎度ありますが、やっぱりお話を聞くのが楽しみです。
たとえ、どんなヘビーな話でも。
変わってるとよく言われます。
いいんです。楽しみなんだもの。
さて、前回のエントリーでなんとなく匂わせたお話を
しようと思っていましたが、ちょっと別の話題を。
はじめに
「信じる」という言葉についての私の思うところを書きたくなりました。
今年の6月頃に考えていたことがあります。
その時は「信仰」について考えていたのですが
今回の「信じる」も土壌は同じと思うので、
そのことについて書いてみましょう。
父との関わりから感じたこと
この夏に私の父が亡くなったのですが、
その介護の手伝いをしていた時に考えたことです。
父は、信心深い祖父を慕っていたようでした。
「ようでした」と言うのもおかしな氣がすると思いますが
慕っていたのか、越えられないと思っていたのかは
直接聞くことがなかったので、私の印象からです。
父は、祖父に買ってもらった仏壇へのお参りを
毎朝毎晩欠かさず続けていました。
そんな父の姿をずっと見ていたので、
父は「死」に対する恐怖をどうにか自分のものとしているのだろうと、
私は思っていたのです。
ところが、病床でどんどん頑固に卑屈になっていく父。
「死」に対する恐怖がそうさせていることは想像できました。
信心深いことの象徴だと思っていた父の行動が、
実は「信仰」から離れたところでの行動だったのかもしれないと、
私は思うようになりました。
父の中にどんなことがあったのか、それはわかりません。
亡くなっているので、聞くこともできません。
なので、これから書くことは私の推測の域を出ませんが
私が思ったことを綴ります。
信仰とは? 私見
私が書いていたメモからの抜粋
信仰とは
私の中に確信めいたものがある。
それは、人が死んで魂が肉体から離れても、
しばらくは辺りに意識が漂っているということ。
色々な人の話を読んだり、
テレビで体験談のようなものを見たりしているうちに、
そう思うようになった。もちろん、宗教的、土着的な言い伝えのようなものから来ている部分もある。
この確信めいたものがあることが信仰なのではないだろうか。
特定の宗教や誰かを求めるなんてことではなくても、
自分の中に強く信じられるものがあれば、それが信仰というものなのだと思う。~中略~
真実と信仰とは必ずしも一致する必要はないのだろう。
死んだらどうなるかは、体験するまではわからないことだし、
生きている間は絶対に体験できないことだから。死んだ後のことは想像でしかない。
けれど、自分にとって
より真実らしいことを信じることが信仰なのかもしれない。死が恐ろしいと信じていれば、その恐怖は増大するだろうし、
死んだ後も意識が残ると信じていれば、矜持として恥ずかしくない死に方をしよう、
自分が自分らしくいられる生き方をしようと思える。信仰があるということは、自分の中に芯があるということで、
それはまた、胆力にもつながるのだと思う。
信じるとは? 私見
自分が何を信じるか?
その信じたものを、どれだけブレずに信じ続けていられるか?
目の前に現れるいろいろな出来事に対して、心は揺れます。
揺れない人などいないと思います。
信じられることばかりが起こるともかぎりませんね。
信じられなくなるようなことばかりかもしれません。
その時にどう対処するかも踏まえて、
自分が「何を」「どう」信じるかが大切なのかなと思うんです。
今回の私の場合、父が遅かれ早かれ亡くなることはわかっていましたから、
私の中にある、この「信仰」のようなもののおかげで
私自身は、父の死をそのまま受け入れることができました。
取り乱すこともなく、淡々と受入れていました。
そして今も、その「信仰」が私の中に強くあります。
この体験から、「信じる」ということも自分なりに腑に落ちました。
さいごに
自分を信じることが難しい、とよく聞きます。
私もそう思っていました。
とは言え、今の私が100%完全に自分を信頼していて、
不安が全くない、わけではないのです。
「信仰」の体験をしたことが、私に勇氣をくれます。
私にも「信じられるものがある」ということを思い出させてくれます。
それはたった一つの体験がもたらしたことでしたが
同じように、「信じる」ことで何度でも体験出来る、と
新しく「信じる」ことができたのが大きいです。
ふと考えてみたことでした。
文字にすることで、自分の考えていることがまとまります。
ブログに書くことで、自分の中にしっかりと落とし込めます。
ibマッピングと同じだなと感じました。