想像力の大切さ 〜「察してもらいたい」と「察する」

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岩手県盛岡市のオーラソーマサロン 
Aihal-Sophia【アイハルソフィア】いがまゆみ です

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察してもらいたい時ってありますよね。
「私が辛いのを察してもらいたい」
「私が一生懸命やっているのを察してもらいたい」

察してあげたい時もあります。
「あの人は今辛いのかな?」
「一生懸命やっているよね、分かってるよと伝えたいな」

「察してもらいたい」と「察する」とは
どんな違いがあるんでしょうか。

察してもらいたいのは落ちているときかも?

察してもらいたい内容を書き出してみると、
「〜してほしい」 と言い換えられます。

「私が辛いのをわかってほしい」
「私が一生懸命やっているのをわかってほしい」

欲しがっている氣持ち。
誰かに自分を認めてほしくて切望している感じ。

自分で「これでいい」と心から思えないから
誰かに後押ししてもらいたいのかもしれない。

なぜ、そんなふうに思うのでしょうか?
「なぜ私は『察してほしい』と思うのだろうか?」
今の自分に問いかけてみてください 。

もしかしたら
今、氣分が落ちているのではないですか?
自分に自信が無いのではないですか?
そうじゃなかったとしたら…
どんなことが思い浮かびますか?

表面的な理由かもしれないし
潜在意識の底でうごめくような深い理由かもしれません。

知らないうちに人のエネルギーを奪っていませんか?

「欲しい」氣持ちは、エネルギーも欲しています。

本来は自分で自分の欲求を満たしていくことで
自分のエネルギーを満たしていくのだけど、
自分でそのエネルギーを満たすことができないと思うと
それは外に向かっていきます。

それが
「察してもらいたい」
「察してほしい」
と、人からエネルギーを欲しくなります。

エネルギーという言葉でわかりにくければ
関心を引き寄せたい、とか
興味を持ってもらいたいとかと言い換えてもいいと思います。

認めてもらいたいというのは、誰にでもある欲求ですし、
求めてしまうその氣持ちもわかります。
ただ、いき過ぎてしまうのが問題なのだと思います。

単に認めてもらいたいだけでなく、
「私を認めて!!」という強い強い思い。
「私のことを見て!!」という切望。
それを口に出さずに、「察してちょうだい!」と雰囲氣で匂わせる。

エネルギーバンパイアなんて言葉もあるくらいで
欲しい欲しいが高じて、知らずしらずの内に
相手からエネルギーを奪ってしまうこともあります。

「あの人と会うとなんか疲れる」
「口では何も言わないけど、なんか圧力を感じる」
「あの人のメールからも、なんか圧力を感じる」

そんな時は、エネルギーを奪われているかもしれません。
もしくは、相手にそう感じさせているとしたら
あなた自身がエネルギーバンパイアになっているかもしれません。

一方、「察する」は能動的

料理研究家、土井善晴さんの最近の著書
「一汁一菜でよいという提案」の中で
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「氣づいてもらう楽しみ、察する楽しみ」という項があります。
その項を読んでいて、こんなことを感じました。

氣づいてもらう楽しみは、相手のことを思ってする楽しみ。

「こうしたら喜ぶだろうな」
「あの人はこういうのが好きだものね」
相手が氣づいても氣づかなくてもどちらでもいいんです。

ここには、押しつけがましさが感じられません。
自分が相手のためにやりたくてやる。
ただそれだけ。

また、察する楽しみは、そんな相手の思いを汲み取る楽しみ。

相手がしてくれたことから
「私のことを思ってくれてるんだなぁ」と思いを汲み取ります。
相手が口にしない思いを汲み取って、次の行動に反映させるのです。

「察する」って人から押しつけられるものではないし
ましてや「察してちょうだい!」なんて突きつけるものでもないと思います。

「察する」という言葉が表している通り
自分が主になって感じに行く、能動的な行動なんだなと思います。

「想像力」を使う大切さ

「察する」には、想像力が欠かせない氣がします。
まずは相手のことを想像しないと、汲み取ることもできないから。
想像が違っていることもしばしばありますけどね。

対して「察してもらいたい」には想像力が欠如してる感があります。
自分のことを見てもらいたい、 自分、自分、自分だから。
相手が氣づいてくれないことに怒りを感じたりもして。

なぜこんなことを書いているかというと、
今の自分はどうだろう?と思ったから。
私にもそのパターンがあるから。

そして、
「察して欲しい」圧力をたびたび感じることがあってから
「察して欲しい」、「察する」ってどういうことだろう?
と考えるきっかけをもらったから。

いろいろと考えてみて、今の私が感じるのは
自分の想像力をもっと使い倒した方がいいということでした。

想像の翼は大きく自在に広げるもの。
想像力をもっと使って、今までの自分の枠から出るきっかけにするのが
いろいろなことにつながって行く氣がしています。

翼を大きく広げようとしている最中なので、今はここまで。

あなたはどうですか?
想像力を使っていますか?

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