先日のエントリの続きです
テキストを読めば読むほど、
自分の言葉で表現するのが怖くなっています。
私自身がやってきたこと、されたこと、
周りで見聞きしていることが
大なり小なりの違いはありますが
テキストに書いている内容とよく似ているからです。
今まで、全体主義や迫害などという言葉が
自分の身近にはないと思っていたというか、
どこか遠い世界の話のような氣がしていました。
言葉や出来事として知ってはいても
自分の身近に引き寄せて考えたことがなかったからです。
改めて、自分のフィールドに引き寄せて読むと
なんとも言えず、落ち着かない氣持ちになってきます。
たとえば「大衆」という言葉が表すのは
まさに今の私たちの社会の大多数を表していて、
もちろん私もその中の一員です。
英語ではthe general public、the masses、the people、popular(ization)などに相当する。popularはポピュリズムの語源である。大衆に属すると考えられる人々は、しばしば没個性的で、同種の他人と混同されやすい存在であるとみなされる。
全体として「突出した能力」や「傑出した容姿」または「類稀なる才能」場合によっては「不快極まりない悪癖」や「言語道断なる害意」を持ち合わせていない存在などとされる。
(中略)
大衆は、もともと政治や哲学、文学には関心がない、とする。
しかし生活に不満を持ったときのみ爆発的なエネルギーを示す。
そうして、生活に不満がなくなれば、政治の場を去り、生活の場に戻って行く。引用 wikipedia 大衆より(https://ja.wikipedia.org/wiki/大衆)
テキストに書かれている「大衆」とは、
自分たちが何をやったら幸福になるのか
はっきりとしていない人たち
であり、
自分たちに都合の良いことを言ってくれるのを
待っているようなお客さんの態度をとる人たち。
自分たちの味方が誰かわからないから
全体像をわかりやすく語る、
選ぶべき道を示してくれる存在を求める。
こういう大衆が全体主義を支持していったのだそうです。
それを読んでぐうの音も出ませんでした。
私、そして私たちが生活している態度そのものだからです。
関口シュン氏のセミナーに出たときのエントリでも
このハンナ・アーレントに触れました。
その中でナチス親衛隊のアイヒマンが
どこにでもいる普通の人間で、
その普通の人間が、多くのユダヤ人を収容所に送り
大虐殺に加担したと書かれています。
(本人は自分の責任ではない、といった)
その恐ろしさ。
戦後、逃亡していたアイヒマンを捕まえ、
ユダヤ人しかいない裁判でアイヒマンを処刑したユダヤ人。
心情的には理解できるけれど、ある意味でそれはリンチと変わらない。
その恐ろしさ。
テキストの表紙に書かれている
「考えることをやめるとき、凡庸な「悪」に囚われる」
というのは、
感情にせよ、思考にせよ、暴走させてはいけない
ということだと思うのです。
アーレントは「悪」が平凡だと言っています。
誰もがアイヒマンになり得るし、
誰もが裁判でのユダヤ人のようになり得るのです。
その恐ろしさを、私たちは自覚する必要があると感じました。
私は例外、とは誰も言い切れないでしょう。
うーん、まだまとまらない。
続きます。