明日は5月29日。
529で「ごふく」、呉服の語呂合わせ。
「5月29日 きものを着ます 2016」のイベントに参加します。
参加と言っても、
いつものように着物を着ているだけなんですが。
「着物を楽しむ時間」を楽しもうと思っています。
着物・きもの・キモノ
今月初めの連休中に実家に帰ってきました。
母が脚を痛めているので、遠出もせずに家の中にいて、
いろいろなことをおしゃべり。
ほとんどが着物の話(笑)
家にある着物を実際に見せてもらいながら、
(もう、次から次へとどんどん出してくるんです)
その着物の思い出話や、
どう着るかについて話の花が咲きました。
アニミズムの世界観
人の手を介して大切にされてきたものに、
どうしようもなく惹かれます。
それは着物だけではなく、
その着物を縫ったときの余り布や、帯なども。
そしてそれは、その品を丁寧に扱って、
きれいな状態のまま保存してきたことにも
惹かれているようなのです。
昔から日本人は、自然のあらゆるものに
神の存在を感じていたといいます。
だから、ものを大切に扱うという
生活様式になっていたのだろうし、
付喪神というものが話題に上ったのだと感じています。
そして、私は小さい頃からこの世界観に馴染んでいます。
器物にも心があり、
使っている人の氣持ちも宿すことがあるというのを、
しごく当たり前に思っていました。
というか、今でもそう思っています。
伯母たちの着物を手にすると、
私の中の伯母たちの思い出が浮かんできて、
母から聞くエピソードと相まって、とても魅力的なのです。
そこにストーリーがあるからかもしれません。
最近の流行りの色柄とは全く別物ですが
袖を通したときの着やすさ、
馴染みの良さはとても心地よいです。
ただ着やすいだけではなく、
とてもきれいな状態で保管してあることも一因です。
やっぱり虫喰いやシミだらけのものは、
いくらストーリーがあってもご免被りたいですから。
実際に扱っているからこそ大事にできる
着物にとって大切なのは風を通すこと。
それを普通にやってきた母のおかげで
私はそれらに袖を通すことができています。
今回持ち帰ってきたものの中に、祖父の袷(あわせ)があります。
私が小さな子供の頃に亡くなった祖父が着ていた着物。
50〜60年も前の紬ですが、柔らかくてしなやか。
見せてもらって、羽織ってみたら、なんとピッタリ。
家で着るには十分だろうということでもらってきました。
私は男ではないけれど、
孫が着たら祖父も嬉しいのではないかなぁなんて。
母から聞いていなければ、
誰の着物かもわからないまま処分される着物を、
もう少しだけ現役復帰してもらうのもいいかなと思っています。
母は、伯母たちに教わって自分でも着物を縫いましたし、
自分一人で着ることも、人に着付けることもできます。
だからこそ、手をかけるべきところと手を抜くところがわかるので、
無理せず楽に着物を扱えるのだなと感じました。
けっこう無茶もしてます(笑)
が、その加減も体験からわかっているのでできるのでしょう。
だから、良い保管状態で私が手にできる、ということなのです。
想いというエネルギー
今回の帰省で、私は自分の根本にあるものを再発見しました。
なぜ私は着物が好きなのか?
なぜ新品よりも着古したものが好きなのか?
私は「人の手を経たもの」に
価値を見出しているのだと氣づきました。
だから職人が作ったものに惹かれるし
工業品でも、誰かに大切にされた想い出を
持ったものに惹かれるのです。
闇雲に古ければいいわけでもないし
新しくてカッコ良くても、
私のココロに響かなければ惹かれません。
そういうものから、
私は「人の想い」を読み取っているのかもしれません。
目には見えないし、触ることも出来ないけれど
そこに宿る純粋な想いを感じているようです。
「これが好きだ」
「大切にしよう」
という、静かに暖かく注がれた人の想いを。
念を飛ばすとか、怨念を籠める、とは正反対の
静かで力強く暖かいエネルギーを前にすると、
私もそうでありたいと思うから、
丁寧に、人に接するように扱うのだと思います。
さいごに
今年の初めから、毎日着物を着て5ヶ月弱。
もしかしたら、途中で嫌になるときがあるんじゃないか?
と思ったこともありましたが、今のところそんな氣配は微塵も無し。
ガチガチに「着物を着なきゃ!」ではなくて、
どうやって着物を楽しもうか?と毎日ワクワクして着ています。
周りの人が着物を着てくれるともちろん嬉しいです。
でも、私一人でも氣にならない。
私が楽しければそれでいい、そんな氣楽な着物生活です。
明日のイベントも目一杯楽しみま〜す!