こんにちは
一歩踏み出すことができないことってありませんか?
「やればできるのはわかってる。でもその一歩が出ないんだよ」
「どうやったらいいんだろう」
私もそのことで悩んだことは何度もあります。
いえ、今でもいろいろ考えます。
こう考えたらどうだろう?
と思いついたことがあるので、メモ代わりに記します。
踏み出せない理由 ~私の場合~
頭で考えていることと、実際に行動に移すまでの間に
深~い溝があるような氣がしていませんか?
先日の田中泯さんのエントリーを書いているうちに
「私の場合」という限定付きですが、思いついたんです。
それは「全然掘り下げてない」ってことです。
そして「責任を取りたくない」と思っているってことです。
他の人がどうかは知りません。
あくまで「私個人」の話ですから。
そんなこともあるんだな、そんな奴もいるんだな、
くらいに感じておいてください。
前置きが長いですね…
え~と、
私の場合、行動できないときというのは
・不安に苛まれているとき
・ただやりたくないとき
・その見積もり自体が間違っているとき
くらいに分類できます。
言葉尻を捉えていると面倒かもしれませんが
行動「できない」ときと
行動「しない」ときは、私の中では明らかに違います。
上の分類は、行動「できない」とき。
このときに「全然掘り下げてない」から「できない」んです。
理由は主体的か?
行動「する、できる」
行動「しない」
これらは、その理由が自分なりに明確になっています。
どんな理由であろうともです。
やりたくなかったり、やらなきゃいけないとわかっていたり、
どうしようもなく好きだったり、嫌いだったり。
けれど
行動「できない」のは、自分に主体性がないときが多い氣がします。
あくまでも私の場合はですが(←しつこい)
要は決められない、決めたくない。
自分の行動に責任を取りたくない氣持ちが、
掘り下げることを回避しているように思います。
でもですね。
この世界は、常に「やるか、やらないか」です。
「できない」も「しない」の一つとして分類したらいいんでしょうが、
私の中では、これは一つになっていません。
なので、未分類のエリア。
「できない」の後ろに「どうしよう」がくっついている感じです。
この「どうしよう」が取れると、
「しない」もしくは「する」に分けられるイメージですね。
本当はどう思っているか?
私にとっての「掘り下げる」というのは
その理由を何段階も踏み込んで考えているか、ということなんです。
いくらあれこれ考えていても、勝手に理由をくっつけていても、
その考えているステージは、一番イージーな表層だけ。
「どうしよう?」「どうしよう!?」「どうしよう!!」
掘り下げるとは、そのステージを一つずつ降りていくような感じです。
「なぜ?」「どうして?」「なぜ??」「どうして??」
自分なりの理由をはっきりさせるために。
ただ、そこに
「人はどう思うだろう?」
「こんなこと許されないよな」
「恥ずかしい」
という他人を氣にする思考がくっついていると
ステージを降りられなくなります。
降りられなくなるというか、
階段があることすら氣がつかなくなっていきます。
失敗したくない、という思いが強いとそうなりがちです。
でも、「失敗」と決めつけなくてもいいんじゃないかと思いました。
ただ行動に対して、過程と結果があるだけ。
そこに「失敗という意味づけ」をするから怖くなる。
怖くなるから「選択」を回避する。
「選択する」ための理由づけを回避する。
「選択をする」は常に「責任を取る」ことと一体です。
そのことに目をつぶって、見ないふり、分からないふりを
していることを自覚することから始まります。
どんなことを選択しても、その過程と結果を自分で引き受ける。
ただそれだけのことです。
そのことを自覚するだけでいいんだと思います。
さいごに
このエントリを書いている最中に、
まさに「どうしよう」と思っていて、
深く考えないようにしていたことが表面化しました…。
氣にはなっていたけど、「私が我慢すればいいんだ」と
自分の感情を脇にどけていたことについてです。
夫と話をしながら、
「あ~、ブログエントリのことはこれだよ~」と思っていました。
自分のとるべき責任を、
夫が(私に都合よく)選択してくれるのを待っていたんだ、と思いながら。
で、結局自分が責任を取る場面が来た、というわけです。
実地で体感(笑)