これは私自身のことなんですが、
なかなか自分のことを客観的に観るのは難しいです。
自分に自信がないときはなおさらだし
得意なことは簡単に振り返れても
苦手なこと、辛いことには目を向けられないことがほとんど。
そんな私ですが
友人たちという「鏡」を通して
自分が見ないようにしていたことに向き合っています。
同じ出来事でもまったく違う捉え方をしてしまう私
毎日の暮らしの中では、いいことも悪いことも起こります。
「いいこと」や「悪いこと」と判断する基準には
「私にとっての」という枕詞がつくので
私の心象状態にかなり左右されます。
落ち込んでいればどんどんネガティブになっていって
いつもなら嬉しい「ありがとう」という言葉でも
「私なんて…」
「そんなこと思ってないくせに…」
と、曲解してしまいがちです。
逆に、氣持ちが上がっていれば
同じ「ありがとう」を素直に受け取ることもできます。
これは言葉だけではなく、態度を見て感じたことも
情報として取り入れるので、
「口だけじゃないか」と思ってしまうこともあれば
「本氣で言っているんだな」と思うこともあります。
そうだとすると、
起こっている出来事には、本当は何の意味もなくて、
私たちが何を感じるか?によって意味をつけているのかも。
「鏡」を通して向き合うとは?
今までは、
A.
誰かが言ったこと、誰かの態度を見て
「自分自身がそうだから、そういうのを見てしまうんだ」
と思っていました。
ところが、つい最近、
B.
誰かが言ったこと、誰かの態度を見て、
嬉しくなったり、腹を立てたりしている自分を
「今の自分の状態はポジティブ寄りだな/ネガティブ寄りだな」
と、観察するようになっているな、と感じています。
AもBも、
「誰かが言ったこと、誰かの態度」が鏡の役割をしています。
その鏡に映っているものを
Aは「それが私自身」と受け止めていて
Bは「鏡に映っている私」と分かっている、
というニュアンスの違いがあります。
少なくとも、私はそういう違いで受け取っています。
Bの方は、「鏡に映っている私」と「私」が違うと知っています。
鏡に映っている私は反射的に反応している、
過去の体験に囚われている私、と感じたんですね。
Bの捉え方に氣づいたので
鏡を通して観えた「私」をどうするのか?を考えて
望んでいる方向へ変えていくことができます。
「外から見える私」と「私らしい私」を一致させていくために
「鏡」を使って自分自身を観ているんだと思います。
「私」が本当に望んでいるのはどんなことなのか?
それを表現するのを友人たちが手伝ってくれました。
考え方が方向転換している感じがします
どれだけせまいところで物事を見ていたか、
どれだけせまい範囲で考え、行動していたか。
私なりに「鏡」の役割が少しずつわかってきたら
モノゴトの見え方が変わって来ています。
まだまだ今までの見方にしがみついてもいますが、
ちょっとずつ方向転換している感じがしています。
うまくまとまっていませんが
今日はこのへんで。