最近読んでいるブログでこんなエントリを見ました。
ブログ主の琴市さんが書いているように
「誤解をしたくてする人はいない」んですね。
もちろん誤解させたくてしている人もいません。
それでも誤解が起きてしまうのは
言葉になっていないところを「イメージ」したつもりで
「妄想」に発展してしまうから。
言葉って万能ではないんです。
思っていることを100%伝えられることはないし、
相手の言った言葉に含まれる思いを100%理解できることもありません。
それでも私たちは言葉を使ってコミュニケーションをします。
お互いに思いを100%言葉にできないことが分かっているから、
相手の氣持ちを想像して、それはこういうことかなと、自分の思いを話したり質問したりと会話が生まれる。
そして、行間がぴたりと埋まったとき、「通じ合った」という感覚が生まれ、相手に対する親近感が沸き起こる。誤解されて悔しいとき、自分の思いが伝わらなくてもどかしいとき、相手のことが理解できなくて切ないとき、自分の心を取り出して相手に渡すことができればいいのにと思うことがある。
でも、それができないからこそ、人間は理解し合おうとするし、理解し合えると嬉しい。
言葉を尽くしても誤解は生じるもの。
受け取り方の違い、経験の違いが「ある」と分かっていれば
そういう前提で話をしようとします。
相手が「わかってくれている」というのは
妄想以外の何ものでもありません。
イメージを暴走させないようにするには
相手と対話するのが一番いい方法です。
これは夫婦でも親子でも同じ。
他人なら話し合うことも、近い存在だと話す習慣もないかもしれません。
だからこそ、お互いに顔を見て対話するのが大切だと思います。
自分とまったく同じ人はいません。
同じでなくていい、違っていていいんです。
違うからこそ知りたいと思うし、
通じ合えた喜びがあるからつながっていられるのだと思います。
琴市さんの結びの言葉に大きくうなずきます。
誤解は行間から生まれるが、理解と共感も、行間で待っている。