コンサルテーションとかトリートメントとかを受けて
何を感じるのかって自分次第なんですよね。
感じないと思ってる人もいるし
感じすぎて大変になっちゃう人もいるし。
感じないと損したような氣分になる人も。
感じたい感じたい!と強く思いすぎて
かすかなゆらぎのような感触を逃してしまうこともあります。
無理していることに氣がついた
なんでこんなことを書くかというと、
私がそうだったからなんです。
他の人の話を聞いていて、あせっていたんでしょうね。
何にあせっていたのかといえば
「感じない自分は劣っている」と思っていたから。
だからと言って、自分が感じたことを言葉にするのに、
うそをついていたわけではありませんよ。
その時は本当にそう感じていたんですから。
…でも、
無理をしていないだろうか?
ふと、そんなことが頭をよぎりました。
「ねばならない」とか「でありたい」とか
繊細でいようとしていないだろうか?
そんなことも思ってしまったんですね。
自分が感じたことにもかかわらず、
なぜか「無理をしている」氣がしました。
思考に引きずられる「感じ方」
実はですね、感じ方も思考に引きずられることがあります。
思考は強力なんです。
思考が先導して、ふさわしい「感じ方」を引っ張ってくる感じ。
思い込みで違うものに見えてしまうとか、
見えないものを見てしまう、あるいは見えているのに見えなくしてしまう。
そんなことが起こります。
私の「無理をしている」というのがまさにそれでした。
何かを感じると「素晴らしい人」と認めてもらえるのではないか
何かが見えると「すごい人」と思ってもらえるんじゃないか
自己顕示欲の塊だったんですね…
ものすごく葛藤しました。
自分がただの人と思いたくないって(笑)
でも、仕方ないですよね。
自分で「無理してる」って氣づいてしまったから。
ため息ついて、仕方ないやってあきらめました。
瞑想して何も浮かばなくてもいい。
セッションで何も感じなくてもいい。
そのままでいようって決めました。
するとおもしろいことに、
そう決めてからの方が、鋭く感じるようになりました。
感じるのを待てるようになったというか、
あせって引っ張り出さなくてもいいとわかったからかもしれません。
思考を静めると、「自分」が奥から湧いてくる
ときどき、お話を聞いていると(セッション以外でも)
思考に囚われすぎているんじゃないかな?
と思う方がいらっしゃいます。
私もまだまだ思考が先行しちゃうので
つい「あ〜、仲間だ〜♪」と親近感は湧きます。
ですが、無理が重なって辛い思いをしている場合には
「もっと別のやり方もあるよ」と思ってしまいますね。
思考が先行していると、なかなか人の言葉も入りません。
思い込みってかなり手強いし、なにより私がそうだったから。
そんなときは、身体の感覚を意識するのが一番です。
私のやり方を少し書いてみます。
日常のあらゆることが思考の中に湧いてくるのを拾わないために
身体を使っていくんですね。
呼吸に意識を向けるとか。
古今東西、いろいろな方法が確立しています。
そうやって思考を拾わずに流していると
かすかなゆらぎのように「あるもの」を感じ取ることができます。
私の場合は、それが「感じる」ということだと思っています。
本当に「自分」が感じていることです。
ざわっとする感覚だったり、
ほわっと暖かくなる感覚だったり、いろいろ。
言葉で浮かんでくるわけではないので、
その感覚を拾い上げて、思考を働かせていきます。
感じるのを待って、言葉にしていく。
これは自分の内側の作業です。
外から持ち込んだ鋳型に当てはめるのとはちがって
「自分」が鍵なんです。
自分が感じることは自分にしかわからないから
それを拾い上げていく作業を丁寧にしていきたいと思います。