大挙してやってきた「禅」コンテンツと、私。

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岩手県盛岡市のオーラソーマサロン 
Aihal-Sophia【アイハルソフィア】いがまゆみ です

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【この記事は約 5 分で読めます】

最近、禅について意識が向いているせいか、
目につく機会が飛躍的に増えています。

直接禅に関係なくても、派生したものまで含めると
びっくりするくらい目にすることが増えてきました。

ティクナットハン師のドキュメンタリーのアンコール放送、
禅寺の修行の様子の紹介、
マインドフルネス瞑想についての科学番組、
以前に買ってあったKindleの書籍などなど…

古舘伊知郎さん司会の苗字に関するバラエティでも見かけましたし
挙げ句、友人家族が金沢の鈴木大拙館に行ったと聞くくらい。

私もどれだけ禅に意識を向けているんだか(笑)
出家しろってことかい。

宗教としてではなく、心の扱い方としての禅

じゃあ宗教に目が向いているか、というとそうでもなくて、
禅が伝える心の在り方、整え方に心を惹かれています。

怒りを感じる心、恐れを感じる心をどう扱うかの興味というか。
まぁ、自分がそうだからなんですが…。

何かを拝んだり、すがったりするのではなくて、
自分の心を自分で扱うやり方を探っているような感じです。

これは、新しいやり方を模索しているというより、
私が学んできたこと、今までやってきたことを
確認して練り直す作業をしているのだと思います。

ああ、こうした方がいいんだなとか、
こう伝えたらわかってもらいやすいかなとかの確認。

オーラソーマでも、レベル2で仏教の見地も学びますし、
色彩の言語の中にも仏教的なキーワードが入っています。

そこで触りの部分として学んだ内容を
深めて理解していくのにも役立っています。

私と仏教のつながり

父の大叔父、叔父、従兄弟に僧侶がいると聞いていました。

どなたもその筋では有名な人らしいのですが、
私は名前しか知りません。

仏教に興味はあっても、
私の日常にはなんの影響もないと思ってきました。

ところが大人になり、オーラソーマと出会って、
真剣に自分というものを探り始めた頃から

私の興味は仏教に根ざしたものだというのを再確認してきました。

例えば、岩手に来て漆器に興味を持ち出した頃、
私が惹かれるのは、金箔をまとった豪華な秀衡塗ではなくて
浄法寺塗などのお寺で使うようなシンプルな漆器類でした。

東北の伝統的工芸品ホームページより写真をお借りしました
秀衡塗 浄法寺塗

漆器の中でも一番心を惹かれたのは応量器。

欅 応量器 黒摺 KE04-005(←クリックするとAmazonへ飛んじゃいます)

これは禅僧が使う食器で、托鉢をする時に布施をいただく器でもあります。
その様式の持つ美しさに心が震える思いでした。
(最近、これも禅だ!と思い出してなおビックリ)

そんなことを思い出していくうちに、私のベースには仏教があり
心を扱うことへの興味があったんだと氣づいていきました。

 

オーラソーマとのつながり

今はティク・ナット・ハン師の本を読んでいるところ。
こんな本を読んでいます。

[amazonjs asin=”4904507789″ locale=”JP” title=”怒り(心の炎の静め方)”]
[amazonjs asin=”4122035244″ locale=”JP” title=”仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす (中公文庫)”]

怒りをどう扱うのか。
初めてドキュメンタリーを見たとき、私が知りたくてたまらなかったことを
ティク・ナット・ハン師は講話で静かに語っていました。

ベトナム出身のハン師自身が経験した、とてつもない怒り。
それをどうやって鎮め、湧き上がる怒りとつき合ったのかを
静かに語っているのを聞いて、私もそう在りたいと思ったのです。

講話を聞くだけではなく、瞑想を日常に実践することで
毎瞬毎瞬、意識を「今ここ」にしかない身体に戻すという禅の世界を、
とても身近なものとして感じました。

私の場合は、この禅の世界とオーラソーマがこの瞬間につながりました。

自分で自分の心と身体をケアしていく
オーラソーマの実践(プラクティス)が  

禅の世界とスッと一致したような感覚でした。

学んだからつながったのではなくて、
やり方は少々違っていても、どちらも同じことを目的として
やっているのだとわかったつながりでした。

アハ体験的な理解です。

これからは、源(ソース)への理解が必要かもしれない

細かく分類していけばいくほど、違いを顕著に見てしまい
AとBは違う!と「違い」に目を向けてしまいがちです。

ですが、一つ上の階層に目を向けてみると
AとBは、実は同じ目的に向かっているというのはよくあることです。

大きなくくりで見れば、同じだということ。

それを、分類してラベルを貼ることに慣れてしまっている私たちは
この大きなくくりで見る視点を持っているのだけど、
うまく使えていないだけなのだと思います。

(同じようなことを、アドラー心理学でも言っています。)

目を向ける先を「違い」というミクロの視点ではなく
「共通点」というマクロの視点で見ていくことが大切なのではないかと。

みんながつながっているのなら、枝葉に囚われるよりも
その源(ソース)が同じなのだと理解していければ
おおらかに受け入れることができるのかもしれません。

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