こんにちは
ふと父のことを思い出しています。
子供の頃は、常に私を監視しているような父が怖かったのですが
私が大人になるにつれ、そんな思いはなくなりました。
それどころか、父の内面にあるものを
感じ取れるようになっていきました。
そんなことを少し書いてみたいと思います。
父を怒らせてばかりいる私
常に私を監視しているような、と書きましたが
実際はそんなことはありません。
子供の頃の私が感じていたことで、
まぁ、とにかく怒られてばかりいたので
監視されているように感じていたのだと思います。
ご飯の食べ方が間違ってる
箸の使い方がなってない
部屋が片付いていない
ものを散らかして片付けない
なんでも中途半端にやりっぱなし
…
などなど。
顔を合わせるたびに睨みつけられているように感じていました。
自分に至らないところがあるから
怒られるのもわかってはいましたが、
どうにもならなくて。
父にはなるべく何も言わないようになっていきました。
関わりが少なければ怒られないから、と思っていたのです。
大人になってからは、監視されているようなことは
全くありませんでしたが、
子供の頃の記憶があるので、
やはり身構えてしまうというか、
距離を置いてしまう状態が続いていました。
表に出てこない父の愛情
今になって思うのは、
父は心配だったのだなということなんです。
変わった子供だったので、
余計心配だったのかもしれません。
庭をいきなり掘り返して、
恐竜の骨や土器を発掘するんだ!とか
新聞の書籍広告を切り取って、
このオカルトの本を買って欲しいと
差し出すような子供でしたから。
(後で考えると、父はよくこの本を買ってきたなと思います)
父なりの愛情ですが、
どうもその表現がストレートではないので
「お前を心配しているよ、こうしてみたらどうだろう?」
ということが
「お前のご飯の食べ方は間違ってる。
ご飯とおかずと味噌汁は交互に食べなくてはダメだ!」
という言い方になってしまうのです。
子供の頃には、
父のこんな複雑な心境はまったくわかりませんでしたから、
言われていることをそのまま受け取ってしまいました。
でも、大人になって
自分も人を傷つけてしまったり、
人から傷つけられたりした経験をしてきて
感じることがあります。
表面に現れていることだけが全てではない、ということを。
私自身がいろいろと経験してきて初めて、
父の心の中を察することが出来るようになって、
父が生涯口に出して言わなかった心の裡にある
家族への愛情を実感としてわかるようになりました。
私の中に根を張ったもの
父の病氣を知った時に、
父の最後を看取ることで私は何かを得るだろう
という確信があったのですが、
本当にいろいろなことを氣づかせてもらいました。
その中でも一番大きいのは、
私は確かに父に愛されている、ということでした。
そこここに父の愛情が満ちていたことを
感じられるようになって
私の中で何かがしっかりと根を張ったように感じています。
自分が愛されていたことが私自身の腑に落ちてから
私自身の心の持ち方が変わっていきました。
これは仕事でも、コース受講中でも、
世間話をしている時でも変わりません。
どんなに泣き言を言っていても、
どんなにえらそうなことを言っていても
どんなに怒っていたとしても
どんなに嫌なことをしていたとしても、
目の前の人は、
その人自身で前を向いて進んでいく力があるのだ
と思うし、そうだと信じている私がいます。
これは私が聖人君子になったわけじゃありません。
顔も見たくないし、話もしたくないと思っていても
「人が持つ質」を
その人と切り離すことがなくなっただけなのです。
だからでしょうか、コンサルをしていて、
クライアントさんがどれだけネガティブなことを言っていても、
何かしらの可能性があることを常に信じています。
それこそ無条件に、何の根拠もないけれど信じています。
今は見つけにくくなっているだけ。
だから自分自身を信じていてほしい。
今がネガティブだと認められるのは素晴らしい。
けれど、いつまでもそこに留まることを良しとしないで欲しい。
あなたが心からくつろげるようになって欲しい。
コンサルでクライアントさんに話す言葉は
私自身にも向けられているので、
私自身も自分の可能性を見出していることにもなるのです。
この心の持ち方は、私が父からもらった
とてつもなく大きなギフトだと思っています。
もらった、というと語弊がありますね。
掘り起こすきっかけをもらった、と言い直しましょう。
さいごに
私自身がネガティブになっている時も、
愛されていることを思い出すだけで
縮こまった心が緩んでいきます。
私たちは、今ここに生きている限り
いろいろなことを体験していきます。
楽しいことも、苦しいことも。
どんなことでも経験してみたくて
生まれてきたのだとしたら、
その体験自体を楽しむためにいるのかもしれません。
いつでも、どんな体験をも楽しめるように、
心をくつろがせていたいと思います。