スピリチュアルに変にはまっている人と話をする機会があります。
(オーラソーマもスピリチュアル系と言われるので
私がこんなことを言うのもおかしいかもしれませんが 笑)
比較=ジャッジ(判断をする)だと思っている人が多いです。
で、ジャッジ=悪いこと、と思っているので(実際にそう言われる)
そのつながりで、比較=悪いこと、と言われた時はびっくりしました。
いやいや、待て待て。
言葉を勝手に解釈して使ってませんか?
自分なりに意味を落とし込んで話していますか?
比較=ジャッジだと思っていませんか?
プロフィールの内容を新しく追加しているときに
上記の出来事を思い出したんです。
プロフィールにも簡単に載せましたが
私は、自宅サロンを開く前まで
検査・分析業務に15年以上携わってきました。
高校の理数系の教科は生物以外は×。
興味が持てないと必要最低限の勉強も怪しい、という
努力という文字のない辞書をもって学生時代を過ごしました。
成り行き上、分析というモロ理数系の仕事につき、
必要に迫られて勉強しながら使っているうちに、
理系の考え方が身についていきました。
分析には比較が必ずついて回ります。
比較の連続が分析という仕事なので。
その中で身についたのは、比較=ジャッジ(判断)ではないこと。
比較を重ねて、データを揃えて、初めて判断(ジャッジ)します。
なので、件の言い方にものすごく違和感を感じます。
「比較」を日常的に使う世界
分析という仕事は比較の連続です。
この比べる、比較するのが日常だったので
何か基準となるものを決めて、それと比べてどうなのか、
そういう見方をしています。
ただ一つのものや数値だけを見て
「これは良くない」
「悪影響が出た」
とは判断できないのを、仕事として、経験として知っています。
例えば、血液検査をしばらくぶりにおこなって、
血糖値がとても高かったとします。
その1回の値だけで「この人は糖尿病だ!」とは判断しません。
どんな状況で採取した血液なのかで値は変化するので
継続的に検査をしたり、別の検査の結果を見たりして
総合的に判断します。
医学分野だけでなく、食品分析や化学分析もほぼ同じです。
比較をしないとモノが言えないのです。
憶測でモノを言うと混乱させるし、場合によっては命に関わるからです。
知ることで世界はもっと広がる!判断はそれから
とは言え、
件の比較=ジャッジ=悪いことと思ってしまった経緯も
わからなくはないんです。
それは
「一つ一つのことをよく知らないまま、憶測で使っているから」
私たちはついつい、憶測でものごとを判断(ジャッジ)してしまいがち。
自分のフィルターを通して感知したものに
さらに自分の思い込みという憶測をくっつけて発信してしまいます。
伝言ゲームが暴走していくのはこういう経緯じゃないですか。
友人のmintさんもこんなエントリを載せていました。
調べる、知るのがまず重要。
その後で自分がどう思うのか、何を感じるのかを判断します。
「あれ?そういうことだったんだ」と思うかもしれないし
「やっぱりそうだったんだな」と思うかもしれません。
意味を知ったり、実際を知ったりすることで
自分の認識を確認・修正することができます。
ジャッジ(判断)自体が悪いのではなくて
偏った判断、思い込みに凝り固まった判断によって
苦しい状態になってしまうのが良くないんだと思うし
私の経験からもそう感じます。
「ジャッジを手放す」とよく言いますが
私は、その手放しにも段階があると思っています。
まずは偏った判断、思い込みに凝り固まった判断を手放す。
その土台づくりが
Aihal-Sophiaで勧めている自分ナビ作りです。
どんな思考、感情、行動のパターンを持っていたのか
また、今はどんなパターンを使っているのか
これからどうしていきたいのか
それを、自分の現在地を見つめて
一つ一つ自分について知っていく作業です。
比較=ジャッジ、と思い込んでいる方!
Aihal-Sophiaでそれを確かめて見ませんか?