このブログで何度か取り上げているNHKのテレビ番組、
「こころの時代」
毎週新しいものを放映しているわけではなくて
期間を空けてアンコール放送をしています。
つい先日も、2年前の内容のアンコール放送で、
「何をおそれるか -本来の私をいきる-」
基督教独立学園高校前校長 安積力也(あずみりきや)さんの
対談を録画していたので見ました。
本放送の時も見ていますし、
その対談内容も印象的だったのでよく覚えていました。
今の私がフォーカスしていることは何か?
人の経験から語られる思い、言葉を聞きたくて
インタビューや対談番組をよく見ていますが
その内容を文字に起こしてくれている方もいるんですよね。
内容の確認のために時々お世話になっています。
(文字情報なので、読むのは大変かもしれませんが)
以前に放送を見た時と、今、見た時とでは
感じるものが違いました。
これは自分でもわかっていることで、
意識している、フォーカスしているものが違うので
同じ放送を見ていても、感じ方が違ってきます。
今回とても意識した言葉は
「おそれるな」
「おそれなくていいんだよ」
その言葉を安積さんはこんな問いに変えています。
「それは本当におそれるに足るものですか?」
「おそれるに値するものですか?
ましてやおそれなければならないおそるべきものですか?」
私もそうなんですが、
実は私たちが怖れているものって
実体のあるものは少ないんです。
得体の知れないものだから不安がつのって怖れる。
あるいは、実体はあっても内面が「わからない」から怖れる。
そこを私がハッキリと見定める必要があるから
意識して感じた言葉なのかもしれません。
希望を選ぶか?絶望を選ぶか?
安積さんのこの言葉を聞いた時に
私の中であるイメージが浮かびました。
どん底に行かざるを得ない経験をして、
しかもそこに勇氣を持って、大人の我々が入って、
しかしそこでうずくまってうつむかないで、
それこそ存在そのものが持っている力なのかなぁ、
そこで暗闇からこう上を覗くと、
さっき申し上げたようなもう一つの現実が
本当に見えるんです、ここの場所で。私はいっぱいそれを自分で経験してます。
太字はAihal-Sophiaで修飾
イメージしたのは、オーラソーマタロットの1枚。
著作権があるので直接は載せませんが
リンク先を貼っておきます。
一般的なタロットの「悪魔」はこんなですが、
オーラソーマタロットでは、
大きく描かれた裸の男女とコウモリ、
中央の炎の中を逃げ惑う人たちの上に
太陽の光が降り注ごうとしています。
男性は目を覆い、うつむいて光から顔を背けています。
女性はまっすぐ太陽を見て、光に顔を向けています。
このカードのイメージが
安積さんの話す内容と重なりました。
「おそれがある」と認めて、なお希望を見ることが
不安に押しつぶされそうな誰かの支えにもなる、
ありもしない希望ではなく、
闇の中で光を見たからこそ、確信できる希望を見ている。
そんなイメージを
安積さんは次のように語っています。
何て言いますかね、人間そうつくられてるんでしょうかね。
本当の存在がドンといっちゃう場所みたいなのがあって、
岩盤みたいのがあって、そうすると、
そこは非常に安心できる場所にもなるんです。そこで本当の普遍の光を見れば。
そういう大人が、子供たちが怖くて見れない。
しかも自分を縛りつけて、呪縛しているおそれの呪縛。
見ることを一緒につきあってあげたら、
子供たちはどんなにそこから本当の光を見いだしていける。太字はAihal-Sophiaで修飾
人が人に寄り添うって
傷を舐め合うのではなく、一緒につきあうことで
「あなたにもできるんだよ」
そう信じて、そばで見ていてくれるってことなんだろうなと
感じていました。
意識してダイブするから見えてくるもの
わからないことをわからないままにすると
いつまでもその呪縛から逃れられない。
もしくは、呪縛ったままにしておきたいのかもしれません。
向き合うのもおそろしいから。
わざわざ向き合って痛い思いをしたくないから。
だったら、見ないことにしておきたい。
わからないままにしておきたい。
安積さんが冒頭の問いを投げかけたのは
当時の高校3年生だそうです。
課題として投げかけ、生徒たちはそれを一生懸命受け止めて
提出したそうです。
その内容を安積さんは、匿名で保護者会で紹介しました。
ただ紹介したのではなくて、 保護者の方にも
次のような問いを投げかけた上での紹介でした。
「もしかしたら、私たちは、
親もそれから我々教師もです、為政者もです、
本来ならば自分が引き負わなければいけない、
自分自身のおそれや不安を、
我が子や弱い立場の者に引き負わせていませんか?」
という問いをぶつけたんです。それは本当に私自身にも向ける問いなんですね。
これをごまかしたらこの国の子供たちは
本当にかわいそうです。
犠牲者になる。
子供たちは、意識して自分のおそれの中にダイブしました。
その体験の告白を、大人(教師と保護者)は
「一人の人間の成長」として受け止めたのではないでしょうか。
「私の方が問われています」
とおっしゃった保護者の方がいらしたそうですし。
人は人として「生きるために」生まれる
安積さんは講演会などで次のようにおっしゃっています。
人は二度生まれる。
一度目は存在するために。
(略)
これ一度目です。しかし二度目がある。
二度目は「生きるために」と書いてあります。
真に生きるために、
私たちはもう一回生まれなければならない。
私は、この言葉は経験から来ている言葉だと思いました。
教師生活の中で経験したことが
聖書の言葉と相まって、安積さんから語られる言葉です。
大人と子供などと限定しなくても
人との関わりの中で、自分の「本当の光」を見出していける。
それが「生きるために」生まれることなんじゃないか、
そんなふうに感じました。
私もいくつものおそれを持っています。
自分でおそれと感じていないこともあるかもしれません。
安積さんのお話を聞いて
今からでも、何度でも、おそれと向き合おうという
勇氣をもらったように思います。
かならず上を向いて光を見ることを忘れずに。