先日のパスワークで出てきたワード、
「昭和臭のする我慢」
私もそうですが、
これ、無意識にやってるくらい染み込んでます。
我慢してナンボ
自分を殺してナンボ
それが美徳だったし、当たり前と思って生きてきました。
「我慢」を辞書で引いてみると
感情や欲望のままに行動するのを抑え堪え忍ぶこと。
辛抱すること。(三省堂 大辞林より)
確かにこういう意味だと思って使ってきましたからね。
こういうタイプの「我慢」って、もう必要ないんだろうね、
そんな話をしてきて、ワードが頭にこびりついていました。
じゃあ、「がまん」って何なんだろう?
最近読んでいるブログにヒントがあったように思いました。
そのブログはこちら。
儀式ではなく修練をすべきでは。 | 植松努のブログ
引用すると
日本では「つらいことをがまんするのが強さだ!」と教えますが、
「がまん」の意味を「あきらめること」「やめること」
「自分の気持ちや心を押し殺して、じっと耐えること」
と教えてしまう人がいます。その結果、あきらめたり、やめたりして、問題を解決しようとする人が増えています。
でもそれでは、自分の居場所を失うだけです。やがて、この世にいる場所がなくなります。僕は、「問題を解決する方法を考える事が、本当のがまんだ」と思っています。
(太字修飾はAihal-Sophia)
パスワークの時に出た話がここにつながるなと思ってます。
出た話の中では、問題ではありませんでしたが、
自分の欲求や願望を【解決する】方法を考えて
行動に結びつけた話だったんです。
そんな風に、自分の欲求に素直でいるのは
昭和の「我慢」とはまったく結びつきませんからね(笑)
「我慢」の元々の意味は仏教用語です。
サンスクリット語 アスミマーナ asmimnaの訳語。
仏教教義においては、心の傲(おご)りを「慢」と称して煩悩(ぼんのう)の一種に数えているが、それに7種あるという。
そのうち、「私は劣れるものより勝(すぐ)れているとか、等しいものと等しいのである」というように「私は……である」と考える心の傲りが狭義の慢であり、「五取蘊(ごしゅうん)(五つの執着の要素)は我(が)あるいは我所(がしょ)からなるものである」と考える心の傲りを我慢と称するのである。
しかし一般には、自己を恃(たの)んで他人を軽んずる意に用いられ、その意味では我執(がしゅう)とほぼ同様の意味である。
〜(中略)〜
なお、我慢の意義は、のちに逆転して、自己主張を抑えることを「我慢する」というに至った。コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)より
この文章を読んでいると、
ますますパスワークの話と植松さんのエントリともつながる氣がします。
それは、自分自身を深く知っていくと、この我執はなくなっていくから。
私が利益を得たい!私を尊重しろ!という妄執ではなく、
自分自身を見つめていくことで、他の人も同じように悩み、
もがいているんだとじわじわわかってきます。
自分が幸せでいたい。
だったらどうしたらいいのか?
じっと辛抱をする、という意味の我慢ではなくて
問題を解決しようと考え、行動し続ける行為が
今、これからの私たちには必要なんだろうなと思っています。
そういう意味で
「昭和臭のする我慢」を選び続けるか?
先を見て考え、行動し続ける「がまん」を選ぶか?
行動し続ける「がまん」を選ぶなら
自分の思いを知るのは必須事項!
あなた自身の思いを掘り下げてみませんか?